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文学日記

好きなことをつらつらと。

芥川龍之介「藪の中」

芥川龍之介「藪の中」

 

初出:『新潮』1922年1月号

《あらすじ》

平安時代、藪の中で起こった殺人事件に関して、様々な視点の7人の証言を並べた話。しかし、それぞれの証言は微妙に食い違い、なにが嘘か真実か分からないまま、真相は「藪の中」へと消えていってしまう………

 

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証言の整理

まずは7人の証言の要点をまとめましょう

 

①木こり

・死骸を見つけた

・胸元に突き傷、死骸の周りに血痕

・縄と櫛が落ちていた

・落ち葉は荒れていたので男は暴れたであろう

・馬は入れない場所

 

②旅法師

・生きていた頃の男を見た

・男は太刀と弓矢を持っていた

・女は法師髪で月毛の馬を連れていた

 

③放免(→犯罪者の探索や捕縛を担当)

・多襄丸という盗人を捕まえた

・弓、黒塗りの箙、征矢17本を所持

・法師髪の月毛の馬を連れていた

 

④媼

・死骸の男は、若狭の国府の侍。

    名は、金沢武広。26歳。

・娘の名は、真砂。19歳。非常に勝気な性格。

・武広は昨日、娘と若狭へ立った。

 

⑤多襄丸

・男を殺したのは自分

・女は殺していない。行方も知らない。

・男と女に出会っていた

 

<殺人の経緯>

①まず男と薮の中へ(女は外で待っている)

②男を組み伏せ、杉の根元へ括りつけ、竹の落ち葉を頬張らせる。

③男が急病を起こしたと、女を薮の中へ呼ぶ

④縛られた男を見るなり、女が小刀を引き抜くも、打ち落とされる。

⑤女「あなたか夫、どちらか死んでくれ」

    →二人の男に恥を見せるのは辛いため

⑥縄を解き、太刀打ちの末に男の胸を貫く

⑦女の姿が消えていたため、太刀と弓矢を奪ったのち、山路へ探しに出るも女は馬を残したまま失踪。

 

*太刀は、都へ入る前に手放した

*極刑を望んでいる。

 

⑥女の懺悔による証言

・多襄丸に倒されたあと、もがく夫の元に走り寄ると夫の眼の中から何かを読み取り、我を忘れ叫んだ後に失神

 

<殺人の経緯>

①失神後、多襄丸はおらず、縛られた夫のみ。②夫の目にやはり何とも言えぬ感情を読み取り、心中を覚悟するも、太刀と弓矢は奪われたのか見当たらない

③小刀を持った私に夫は「殺せ」と訴える

夫の胸へ小刀を刺し通す

⑤またも失神し、目が覚めると縛られたままの夫の死骸。縄を解き捨てる。

 

*その後、女はなんとか自分も命を絶とうとするもどうにも死にきれない

 

⑦殺された男の死霊による証言

 

<自殺の経緯>

①多襄丸は妻を倒したのち、「私の妻にならないか」といった内容を話し始める。

②目配せで「話を信じるな」と伝えるも、妻は話を聞き入り、多襄丸に色目を使う始末。

③多襄丸に手を取られ、薮の外へ出ようとする妻が突然「あの人を殺してください」と叫び、多襄丸の腕に縋り付く。

④多襄丸が妻を蹴倒し、男に「妻を殺すか?」と問いかける。

⑤まだ何も答えないうちに妻が脱走。

⑥多襄丸は、男から太刀と弓矢を取り上げ、縄の1箇所を切る。

⑦多襄丸も妻も薮の外へ出た後、妻の小刀を自らの胸へ突き刺す。

⑧誰かが忍び足でそっと胸の小刀を抜き、完全に死亡。

 

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事件の真相

 

作品が発表された当初から、数え切れないほどの文学研究者が事件の真相を明らかにしようと試みましたが、時期にそもそも芥川が一つの真相へとまとめあげることを意図していた訳では無いという流れが生まれ、現在は真相そのものではなく、なぜ真相探しが頓挫するのか、どのように真相の解釈が「命じられるのか」といった方向へ進んでいます。

 

「真相は藪の中」の言葉の語源にもなったように、3人の殺害者がいる限り、恐らくこの物語の中には完全な「真相」は存在しません。個人的な見解としては、極刑を自ら望む多襄丸はどこか女を庇っているように感じるし、女は女で何度も気を失っていることから発言に整合性は無いに等しいし、そう考えると男の発言が最も信頼に値するものかと思いきや、男は侍としてのプライド故か為す術なく殺された他殺ではなく、自分の手で死んだ自殺だと主張しているような気がして、やはり食い違った証言しか手元にない限り、この事件は「藪の中」だと結論付けられると思います。

 

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「信頼できない語り手」

「信頼できない語り手」とは、語り手の信頼性を著しく下げ、読者や観客をミスリードへと上手く導くトリックです。小説だけでなく映画にも使われる手法のひとつで、見事に騙された方も決して少なくはないでしょう。

アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』、夢野久作ドグラ・マグラ』、最近では映画『ジョーカー』でも活用されている非常にポピュラーながらも全く色褪せません。

 

「藪の中」は複数の信頼できない語り手によって成り立っており、参考にしたと言われるアンブローズ・ビアス『月光の道』も同じ手法が取られています。

犯人候補である3人はともかく、まず旅法師。

語り口に「さあ、」「確か」などあやふやな発言が多々見られ、あいまいな記憶が信頼できる語り手とはとても思えません。

次に媼。

女と同じく、精神が不安定な語り手も信頼がおけません。今後の展開的におおかた真実なのかもしれませんが、全てを信頼することは危険でしょう。

次に放免。

検非違使に言われた内容を繰り返しているように見える放免も信頼には値しないでしょう。一見、確かな情報に見える馬の毛色や多襄丸の持ち物は放免自身が言った証言ではありません。

自分が捕らえた悪党が今回の犯人だと決めつけているところも引っかかりを覚えます。

次に木こり。

最初に証言を始める人物であり、登場人物の中では最も語り口もハッキリしていることから疑われにくいですが、ここまで来ると木こりのことも疑ってみましょう。

例えば、櫛。殺害現場に残された貴重な証拠品であるはずなのに、「櫛が落ちていた」と証言したのは木こりのみです。また、男が「手痛い」動きをしたとの発言も少し気になります。殺害現場で周りが荒らされていると、犯人と一悶着あったとか、犯人が暴れたと思うのが妥当な気もしますが、木こりは殺された男に対してどこかマイナスイメージを持っているような印象があるところが気になります。

 

私は、この物語は誰一人として真実を話していないと考えています。候補である3人も、証言者である4人も誰かが真実を言っている訳ではなく、真実と嘘を絶妙な塩梅で積み重ねていくことにより、物語自体に大きな歪みが生じているのだと感じます。

 

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証言の食い違い

 

では、何故このように証言の食い違いが発生したのか考えてみます。

例えば、家の近くで殺人事件が起き、しかも犯人は近隣の住人だった。その場合、警察やマスコミはかならずあなたの元へ犯人の印象について聞き込みに来るでしょう。

その時、人間は恐らく無意識のうちに「挨拶を無視されて怖かった」や「自分が殺されてもおかしくなかった」などと、自分を「悲劇のヒロイン」いわば「主役」に仕立て上げる傾向があるのではないでしょうか。

問題の3人、罪の擦り付け合いならまだしも、全員が全員「自分か犯人だ」と主張する事はさらさらおかしな話です。この事から、自分を良く見せるだけではなく、「自分が1番可哀想な人間だ。悲劇のヒロインだ。」と自らを下げてでも話の中心へと持っていきたがる、ある種の人間のエゴが集まった作品のようにも思えます。

 

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与えられた恐怖と探究心

 

未解決事件、自らが体験した心霊現象、動機のない殺人事件など、我々人間は得体の知れない恐怖を恐れ、どうにか犯人や理由を見つけ出そうします。

「藪の中」は、必ずどこかに真実がひとつ存在する殺人事件であり、数え切れないほどの論文が書かれているにも関わらず、やはりどこかに矛盾があり、完全な推理は見つかっておらず、発表から100年経った今でも未解決事件となっています。私たち読者はこの謎に包まれた殺人事件を知った瞬間から、心にどす黒く残るもやもやしたものを晴らすため、四六時中頭の中でグルグルと様々な考えをめぐらします。

「藪の中」が与えた得体の知れない恐怖心というものが、今でも多くの読者を「藪の中」へ貶めている正体なのでしょう。

 

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作品の見どころ

 

結局のところ、やはり読者である私たちも「藪の中」へ入ってしまったような感覚を楽しむことがこの作品の醍醐味ではないでしょうか。100年以上解き明かされない謎ですが、とてつもなく長い月日を越えても未だに楽しむことができる最高の推理小説です。きっと、百人百様の考えが生まれ続けている作品だと思います。是非、あなたならではの「藪の中」を探してみてください。

 

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おまけ

 

《最後の描写》

「藪の中」のラストは、男の死霊による証言で締め括られます。男の証言の中では、妻の小刀で自害するのですが、意識を失っていくうちに杉や竹が見えなくなり、薮がどんどん薄れていく描写が秀逸だなと思います。もうこの世にはいないこの男だけが、全世界でただ1人「藪の中」から出られたのでしょう。

 

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芥川龍之介 藪の中

芥川龍之介「蜜柑」 〜蜜柑と五感〜

 

芥川龍之介「蜜柑」

 

大正8年5月大正『新潮』にて発表

《あらすじ》

退屈な人生に疲労と倦怠を感じている「私」は、汽車が発車するのをぼんやりと待っていた。そこへ発車寸前に、醜い田舎娘が飛び込んでくる。「私」はこの娘を快く思わなかったが車中でのある出来事により、「私」は人生に対する疲労と倦怠を少し忘れることができるようになる。

 

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大人と子ども

「私」

人影のないプラットフォームや、檻に入れられた犬の悲しそうな鳴き声に親近感を覚え、発車の笛に心の寛ぎを感じる人生に疲れた「大人」。冒頭、娘が汽車に飛び込んでくるまでの「私」の描写は本文通り「雪曇り」のようなどんよりとした仄暗い空模様が続きます。

 

「田舎者の娘」

三等の切符にも関わらず「私」がいる二等へ滑り込むように乗り込んできた十三四の「子ども」。重苦しい日暮れの汽車を叩き壊すような日和下駄のカラカラとした音や、「私」1人の汽車に突然現れる子どもを想像すると、静寂の中に一気に喧騒がなだれ込む何とも言えない空気を思い浮かべることができます。

 

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暗と明

この作品において最も素晴らしいとされる色彩描写について。

 

①列車が動き始めた際のプラットフォームの「赤帽」「煤煙」

「私」の心情とは程遠い赤色が、どす黒い煙に飲み込まれていく様を見て、「私」はようやく一息つきます。「黒」にかき消された「赤」は娘という喧騒を表す色と捉えられます。

 

②娘の色

(直接的な色ではないが)銀杏返し「赤み」を帯びた両頬。萌黄色の毛糸の襟巻。そして、さらに三等の赤切符

ちなみに「私」が乗っている二等の切符は「青色」であり「私」と娘は寒色と暖色で完全に対比されています。

 

どんよりとした薄暗い雰囲気を帯びていた作品が、娘の登場により華やかに色付いた印象を受けます。しかし、「私」にとってはそれすらも忌み嫌う原因のひとつでしょう。

 

ここまででも「大人」である「私」と、「子ども」である「娘」の暗と明の対比関係が視覚的にも非常に分かりやすく明らかです。

 

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クライマックスへ向けて

 

席を「私」の隣へ移した娘が、汽車が走る中、さらに頬を赤くさせながら一生懸命に窓の戸を降ろそうとします。

戸は降りたものの案の定、車内には「煤を溶かしたようなどす黒い空気」が立ち込め、作中で「暗」を最も暗示させる表現が登場してしまいますが……

汽車がトンネルを出た途端、先ほどの娘が外にいる3人の男の子に向かって「蜜柑」を投げます。

 

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華やぐ色彩と蜜柑の味

 

最も有名な蜜柑を投げるシーンでは、「暮色」と「蜜柑」という2つの燃えるようなオレンジ色、そして小鳥のように声を挙げた3人の子供たちという聴覚効果も混ざり合い、物語のクライマックスにふさわしい色彩で彩ります。

しかし、ここで鬱陶しく感じていた娘の行き先が「奉公」であり、子供たちはこの娘を見送りに来た弟たちだと「私」は刹那にして感じ取ります。

娘が汽車にギリギリで飛び乗ったのも、もしかすると奉公に行きたくなかったからなのかもしれません。

 

これまでの色彩がもはや薄れるような、最後の怒涛の鮮やかな色合いに情景を思い浮かべてはこちらも目を奪われますが、娘の行き先や弟たちの心情を思うと、鮮やかなオレンジ色がまるで蜜柑の味のようにどこか切なく酸っぱく感じてしまいます。

 

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「蜜柑」と「五感」

 

「蜜柑」では物語を通して視覚だけではない感覚が手に取るように感じられる気がします。

 

・「視覚」

沢山散りばめられている通り、様々な色彩を通して、その場の情景をありありと思い浮かべることができます。最後の場面、「暮色」と「蜜柑」の色の混ざり合いは思わず胸を打たれます。

・「聴覚」

最後の場面、小鳥のように声を挙げた3人の子供たち。まるで一瞬、走る汽車の窓が開いている轟音を忘れるような感覚に陥ります。

・「味覚」

先ほども述べたように、視覚に気を取られがちですが、作品の題名でもある「蜜柑」は味覚にも訴えかけているように感じられます。甘いだけではない少しの切なさも含む結末は、まさしく「蜜柑味」だと感じます。

・「嗅覚」

窓を開けたことによりなだれ込む喉を焼き尽くすようなどす黒い煤の匂い、トンネルを抜けた先の土や枯れ草、水の匂い、そして隣の席から投げ込まれた蜜柑の爽やかな匂い。どれも想像するに容易く、その場にいるかのような錯覚を起こします。

・「触覚」

こちらは窓を開けた際に顔に当たるであろう煤の交じったどす黒く生ぬるい風と、トンネルを抜けた先の冬の町はずれならではのキンと張り詰めたひどく冷たい風が当てはまるのではないでしょうか。

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作品の見どころ

何かと面倒なこの現代社会、「私」と同じように不可解で下等で退屈な日々ばかりだと感じる人の方が圧倒的に多いと思います。そんな中、作品自体を寒色から暖色に見事に塗り替えた娘の、蜜柑のように少し甘くて酸っぱい爽快感を作品を読むことにより感じることができ、また読み終わる頃には何故か口いっぱいに蜜柑の味が広がっているのではないでしょうか。

 

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おまけ

 

《作品について》

この作品は、珍しく作者の実体験に基づいて書かれており、発表当時は「私の出逢つた事」という作品名でした。後に「蜜柑」「沼地」と改題されています。また、芥川は当時横須賀の海軍機関学校の教官として勤務しており、横須賀線列車を通勤に利用していたそうです。

 

《娘の銀杏返し

髻を二分して、根の左右に輪をつくり、毛先を元結いで根に結ぶのが特色。形が銀杏の葉に似ていることからこう呼ばれた。「吾妻余波」に12〜13歳の少女から20歳以上の年増まで結う比較的略式の髪型と記されている。

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《萌黄色》

春先に萌え出る若葉のようなさえた黄緑色。

 

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《切符の色》

1960年〜1969年の二等級制時代では、国鉄では客車の帯の色から一等は「白切符」、二等は「青切符」、三等は「赤切符」と呼ばれていたそう。

 

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芥川龍之介「蜜柑」

 

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芥川龍之介 蜜柑